Masuk小屋を出た頃には灰色だった曇り空には隙間が生まれ、青い空がぽっかりと顔を見せてくれていた。それはまるで俺たちを祝福しているかのようで、なんとも気分がいい。 冬風は冷たいが陽射しが俺たちを優しく温めてくれる。 「うーん、よかったねさつきさん。活動写真楽しかった?」 「全っ然集中出来ませんでした。誠二様ずっと喋ってらっしゃるんですもの」 「だってしょうがないじゃん。黙ってたら考えちゃうでしょ?」 「……疲れました」 さもありなん。俺は後頭部に腕を回し、空を見上げながらぽつりと。 「うーん、失敗だったなあ。でも心の声は出さなかったね」 「でも」 「ん?」 「私のためにそこまでしてくださる誠二様の姿は、楽しかったですよ」 ちらりとさつきさんを見ると、そこには春の陽射しを思わせる満面の笑顔が見事なまでに咲き誇っていた。 「そうか、そりゃなにより! 腹が減ってきたね。食事にしようか」 「はい! 色々ありますねえ。どれにしましょう」 俺たちは町を寝る歩きながら食べ物屋を見て回る。そば屋、寿司屋、料亭、割烹、大衆食堂、しかしせっかくのランデブーなのだ。もうちょっと品のよいものを……。 「お、洋食屋があるよ。カツレツ食べよう」 「わかりました」 さつきさんも納得してくれたようで、明るい声で頷いてくれた。 ちなみに後ろにはぞろぞろと鈴子さんとそのお付き、さらに新聞社、雑誌社の面々が歩いていて、さながら大名行列である。 彼らも入るのだろうか? 入るんだろうな。満員御礼だ。 「いらっしゃいませー」 案の定、鈴子さんたちも入った。 まあ仕方ない。俺たちは壁際に座ってメニューを見ると、流石に山口はにぎやかな町だけあって東京と変わらないようだ。 俺は店員を呼び、早速とばかりに注文する。 「さて、じゃあカツレツにライスをつけて二人前……」 「あ、待ってください。私、オムレツがいいです」 「オムレツ?」 「はい、実は私、お肉好きなんですけど、卵の方がもっと好きでして……すみません」
かくして、俺とさつきさんの逢瀬、デート、即ちランデブーが始まった。 勿論本来の目的はサトラレ征伐。つまり心の声を出させずにやりきれば俺たちの勝ち、途中でサトラレを発症させ、征伐が失敗に終われば鈴子さんの勝ちだ。 シンプルでいて、それでいてディープ。 俺は深呼吸を一つするとさつきさんを見つめ、力強く宣言する。「よし、ランデブーについては俺に任せてくれ」 「だ、大丈夫ですか?」 「考えない! 考えそうになったらくすぐるから」 「ええええええ!」 何を驚くさつきさん。当たり前じゃないですか。 「ほら行くよ。あ、人力車乗るからパナマ帽をしっかり被ってね」 俺はそう言って先に人力車に乗り込み、さっと手を差し伸べた。 さつきさんは俺の手を取り、席についてからしっかりとパナマ帽を被り直す。 「あ、はい。ありがとうございます」 「うん、かわいい」 「え、えへへ……」 いい笑顔だ。そうでなくっちゃ。 「で、どこに行くんです?」 「活動写真を見よう。来る途中見かけたんだ」 流石にここは工場地帯。こんな所で遊ぶ場所などないからな。にぎやかな所に行かないと。するとさつきさんは目をきらきらと宝石のように輝かせ、声を弾ませる。 「活動写真ですか。私、見たこと無いんですよ」 「お! そりゃ丁度良い。じゃあ活動写真童貞を捨てよう! ん? 女だから処女か」 「そういう言い方しないでください!」 おっと失敗だった。デリカシーが無かったかな。でもお陰で余計なことを考えさせずに済んだからよしとしよう。 俺たちは人力車から降り、わいわいと人の波をかき分けながら小屋の中へと入っていく。まあ小屋といっても結構デカイ建物なのだけど、便宜上な。 壁にかけられているポスターを見て、俺は腕を組みながらふむ、とこぼす。 「さて、演目は……生の輝きか。ちょいと古いな」 「ご存知なんですか?」 「確か二年前に封切りされたもので、日本初の女優を使った演し物なんだよ」 「へえ、女優……。婦人もキネマトグ
さつきさんが顔を真っ赤にして鈴子さんを怒鳴りつけた。 かつて俺がやられたこと。彼女は非常に誇り高く、尊厳を傷つけられるのを何より嫌う大和撫子だ。金を恵んだところで喜びなどしない。そんな軽い女性ではない。 だが、それは当然鈴子さんにもわかっていた。 「別に乞食だなんて、お金をあげたわけじゃないわ。お仕事をあげたのよ。雇用よ雇用。別にタダでお金をあげたりなんかしてない。七岸家の尊厳は傷つけてなくてよ?」 「…………」 「七岸さん、私をナメないで。ちゃんとそういうとこ、知ってるんだから」 にやりと笑う鈴子さん。どうやら彼女の方が一枚上手だったようだ。ぐうの音も出ない手口にやり込められたさつきさんは泣きそうな顔で俺の腕にしがみついてくる。 「こ、この人は……せ、誠二様……」 (こ、怖い……この人、怖いよぅ……) 気持ちはわかる。入地鈴子という女性は怖い。彼女を怒らせると日本では生きていけない。それをありありと証明するかのような強引なやり方。俺は戦慄を禁じ得なかった。 さらに鈴子さんは語る。 「そしてここに住まわせたのも理由があってね、七岸さんのサトラレ、ここが発祥なのでしょう? ここに研究機関を建て、七岸さんの治療を万全に出来るようにとの配慮よ。最初は北樺太で働いて貰おうかなとも思ったけど、政府の秘密情報によると、どうも北樺太購入は出来そうにないのよね。今多くの山師が北樺太は日本領になるんだーって先行投資してるけど、あれは失敗するわ。だからこの地を選んだの」 「……な!」 「ただし、条件がたった一つだけある。それは誠二さん、七岸さんのことを諦めていただけないかしら? そうすれば新聞社の連中を下がらせるわ」 彼女は本当に全てを知っていたのだ。どこで入手した情報だ、なんて聞くのは野暮。彼女に知らないことなどない。日本全てが入地家の庭も同然だからだ。 俺はもう呆れ果てることしか出来ない。 「君はなんでも出来るんだな」 「ええ、出来るわ。なんでも。勿論北樺太を日本領にしろとか、赤軍を倒して親日政権を樹立させ、シベリア出兵を終わらせろとか、そういうことは無理だけど、少なくともこれく
取り敢えずここら辺一体は工場地帯で、あるのは工場と労働者たちの借家、長屋くらいしかない。これではつまらないのでにぎやかな町へと繰り出そう。 そう思って人力車を探していた、その時だった。 「……ん? なんだ、な、なんだ!?」 ぞろぞろとカメラを持ったスーツ姿の一行が俺たちの元へ駆け出してきた。 「え? こ、これは……きゃあ!」 彼らはさつきさんを取り囲み、俺をはじき出してしまう。 「産水新聞の者です」「月刊文鳥の者です」「ちょっと質問いいですか?」「君、市川誠二くんだよね? 市川電機の御曹司の」「その娘について聞きたいことが」 「な、なんだこいつら!?」 こいつら報道関係者か!? でもどうして!? 「ど、どうして!? え、な、なんで!?」 (し、新聞社って、ええ!?) さつきさんも困惑している。そりゃそうだ。全く理解できない――直後。「いとオホホ!」 今回は牛車ではなく人力車ではあったが、やはりというか十二単をまとっており、非常に座りにくそうだった。口元に手を添えて高笑いしているが、バランスを維持するのが大変らしく、体がしきりに揺れている。 「す、鈴子さん……」 「ま、またあの格好……」 俺は慣れたものだが、さつきさんの瞳にはありありと軽蔑の色が含まれていた。 いや、俺もね、山口くんだりまであの格好でやってきたことにかなり思うことはある。 「十二単を着て……。なんであの子はああなんだ? てか、なんでいるんだ?」 「……おかしすぎますよ、あれ。本人恥ずかしくないんでしょうか?」 (凄く歩きにくそう……お付きの人も大変そうだなあ) なるほど鈴子さんの後ろにはお付きと思われるスーツ姿の集団が走っており、なんというか、非常にシュールであった。 「多分平気なんだろうね。俺は恥ずかしい」 俺がそんなことをこぼすと彼女は停車し、ひょいっと飛ぶように地面に降り立った。 「ダメよ誠二さん。あんまりおいたしちゃ」 おいた
その後、さつきさんは矢絣模様の袴に着替え、一緒に外へ出ることになった。 パナマ帽を被り、ブーツを鳴らす様は普段の彼女とはまた違った魅力を醸しだしている。女学生的というか。 ちょっと興奮してきた。 「で、どうするんです? 今回は女中の仕事ではないんですよ?」 七岸さんは後ろを見ながらそう言ってきた。後ろにはお父様、お母様、聖子の三人がいて、心配そうにこちらを見つめている。うりっちもいるな、一応。何故か付いてきた。 俺は前髪をふぁさっと掻き上げ、歯をきらめかせながら答える。 「やることは同じだよ。七岸さん、いや、さつきさんが一定時間何も考えなければいいわけだから。だからこれからやるのはランデブーさ」 「ら、ランデブー?」 「そう、最近じゃ逢瀬のことをそう言うのが流行ってるんだよ? デートとも言う」 「………………は?」 七岸さん――さつきさんの足が止まった。 しかし俺は構わず彼女の手と取ると、思い切り灰色の空に掲げ、高らかに叫ぶ。 「さあ、俺たちの圧倒的なランデブーを見せつけるんだ! 勿論サトラレ征伐はしながら、ね。覚悟しておいた方がいいよ?」 しかしさつきさんは俺の手を振り払い、顔を真っ赤にしながら叫び返してくる。 「自分から煽っておいて何言っているんですか! 頭オカしいんじゃないですか!? だいたい逢瀬って普通人気の無い木陰でそっと手を繋いだりとか、誰も居ない夕方の海を一緒に眺めたりとか……」 「古い古い。そんなの明治時代のランデブーだよ。アメリカじゃ自動車でドライブした後ダンス・ホールで踊り明かし、最高級のレストランでディナーを楽しむそうだよ」 「は、はしたない……っ!」 さつきさんはうつむいてしまった。奥ゆかしい子である――と、思いきや。 (でも、なんか楽しそう……。ワクワクする) なんだい、本音ではやりたがってるじゃないか。俺はぱちんとウインクを一つし、親指を立てる。アメリカンスタイルだ。 「そうこなくっちゃ! それにしても私服のさつきさん、綺麗だよ」 「ふ、ふん世辞者が! 歯の浮くようなことを言ってもダメです
「「…………」」 あんぐりと、お父様とお母様があんこうみたいに口を開いた。 と、廊下からも声が。 「は、はあ!? 何言ってるんですか誠二様!? 頭オカしいんじゃないですか!? (ひ、ひえええええ! わ、私……え、ええええええっ!?) 心の声つきだ。つまり間違いなく、七岸さん。 俺は早速とばかりに手招きする。 「あ、七岸さん。聞いていたの。ささ、こっちに来て」 ふすまが開かれ、ひょこっと顔を出す七岸さん。しかし即座にお父様がたしなめる。 「こらさつき! 下がっていなさい!」 だが、そんなの俺が許さない! 「あ、待ってください。七岸さん。本当は君のサトラレを治したら言うつもりだったんだよ。でもこの期に及んでは仕方ないね。今言おう。俺は、市川誠二は、七岸さつきさんを妻に迎えたい! 入地鈴子さんではなく、君を嫁にしたい!」 (え、え……えええええっ!? わ、私……えええええ!? な、何言ってんの!?) 七岸さんの愉快な反応は置いといて、俺は改めてお父様お母様と向き合う。 「お父様お母様、僕は七岸さつきさんを愛しているのです!」 「日本人ならそう愛してる愛している言うモノではありませんが……」 お母様の旧態依然な突っ込み。 俺は頭を抱えながら叫ぶ! 「ナンセンス! そんな明治時代の脳みそをしていたらこの大正の世は駆け抜けられません! 月が綺麗ですね、とでも言えばいいと言うのですか!? ありえません! 日本は今や五大国の一員! 世界に名を轟かす列強! 脳みそ明治時代では笑われますよ」 夏目漱石みたいな明治の価値観に拘泥した保守的な人間の意見など、このご時世において何の役にも立たん! 俺はどんっと自身の胸を叩き、高らかに告げる。 「西洋ではこうしてハッキリ愛を告げるのが主流なのです。これからの日本もそうなるべきなんです。常に進歩していかねば! 明治時代のカビの生えた常識など通用しない」 お父様は震える手で湯飲みを取り、ずずーっとかなり酷い音を立てながらすする。相当緊張しているらしい。 「なるほど
俺は一端土間を出て、外の空気を吸う。もう空は真っ暗で満天の星々がきらきらと輝いている。月は少し欠けているな。 肌をえぐるような凍てつく寒さが俺の全身にまとわりつくが、不思議と不快ではなかった。冬の透徹した空気が俺の肺に入り込む度に心が洗われるよう。 夕飯まで外で体操でもしようか。そう思って屈伸を始めた時、がちゃりと音を立て、七岸さんが出てきた。もう出来たのか? いや、手に何か持っている。円筒状の物体だ。 「あ、七岸さん。それは?」 「見てわかりませんか? 目が腐ってるんですか? クズ野菜などのゴミ出しです。これは裏に置いておけば
結果を言うなら、俺の圧勝に終わった。 「ふん、他愛もない」 「馬鹿な……」「なんだ、こいつ……」 俺はマントをばさっと翻し、駆ける。こんな雑魚どもの相手などしてられないのだ。 「さて、これはいかん。大遅刻だ。急がねば!」 とはいえこれではどう考えても間に合わない。家につくとしたら四時十五分、いや、下手したら四時半くらいになる。 ちらりと、道の端に自働電話が見えた。自働電話とは道ばたに設置されている電話のことで、お金を入れることで通話が出来るという画期的なサーヴィスである。雨宿りも出来るよう小型のボックスに包まれていて、至れり尽
師走特有の北風が夕方の空に吹きすさぶ。 学ランとマントをまとう俺の体に針のごとく突き刺さる圧倒的な寒さ。しかしそんなことを気にせず東京の街並みを全力で突き進んで行った。 家までは走って三十分。まさにギリギリだ。しかし諦めない。俺は人々の隙間を縫いながら疾駆する。 往来は夕飯時が迫っているということもあり、主婦や子供たちが談笑しながら買い物し、それに呼応するように様々な店の主人が大きな声を張り上げ、それが東京に活気をもたらしていた。 うん、つまり彼ら凄い邪魔なんですけどね。まあ仕方あるまい。この困難が俺をより一層燃えがらせ
いくたびも、雪の深さを、尋ねけり。 正岡子規が読んだ句の通り……と言うには雪などこれっぽっちも降っていないし、にこやかな晴天が空を覆い尽くす十二月上旬の東京市。 本郷区向ヶ丘に居を構える第一高等学校の廊下で、俺は先日のテスト結果が張り出された紙を眺めながら盛大に高笑いしていた。 「はーははっははっはは!」 市川誠二の名前が七番目に記されている。つまり七位だ。試験一週間前から睡眠五時間で勉強し続けた甲斐があったと言えよう。周囲の学生たちがぎょっとした目でこちらを見るが、俺は全く気にしない。 「んー、快調快調。よっしゃ、次は五位







